夢と記憶
ジェフ・ディロンの絵画は、現実と魔法を融合させる。
グランド・マガジン
2015年5月10日
バーバラ・アガーホルム

10代の頃、画家のジェフ・ディロンは部屋の周囲に水の霧を吹きかけ、すぐにドアを閉めていた。寝室には少なくとも100鉢の植物があり、あまりにも緑が多かったため、まるで熱帯雨林のようだった。「寝室でトウモロコシを育てていました」と、物静かで活力にあふれたディロンは言う。「天井にホチキスで留めたつる植物もありました」。机は宿題ではなく、植物を鉢に植えるために使っていた。水槽には魚やイモリが泳いでいた。姉のセキセイインコは部屋の中を飛び回るのが好きだった。ジャングルの水やりは大仕事で、霧吹きが役に立った。

現在、ディロンは、農地や森に縁取られた道路沿いにあるキッチナーのコンドミニアムで、40鉢の植物を育てている。
リビングルームでは、きれいに掃除された水槽の中で鯉がきらめいている。大学の園芸学課程で取り組んだプロジェクトである、額に入れられた数十枚の押し葉が、2階の寝室へ続く壁を覆っている。強い発色が気に入っているゴールデンのアクリル絵の具を入れたスパイスラックが、イーゼルの横の壁に掛かっている。
ここで39歳のディロンは、アウトドアへの愛、豊かな緑、鮮やかな色彩、旅、冒険を描いている。彼の「自然が支配していく」風景画に、エミリー・カーやグループ・オブ・セブンの影響を見る人もいる。見る者を惹きつけるのは、空のエネルギーや、都市風景の窓から、そして風景の木々の間から放たれる光だ。
特に好評なのは、雷雨の中の山小屋のポーチであれ、赤や緑、黄色の建物が並ぶヨーロッパの街角であれ、絵の中に自分自身を置けることだ。
「窓越しに見ているような感じです」と、ウォータールー地域法律協会の図書館マネージャー兼エグゼクティブディレクター、キャサリン・マルバーンは言う。ディロンの作品は、かつてのウェーバー・ストリート裁判所と、キッチナーに新設されたウォータールー地域裁判所の図書館で展示された。彼女のオフィスを訪れる人々は、マルバーンが画家から購入した、光り輝く都市風景画について感想を述べる。「みなさん必ず『スイスみたい』とか……『アムステルダムでここにいた気がする』と言うんです」と彼女は話す。
「彼の作品はとても独特で、生き生きしています。……その場所へ連れて行ってくれるんです」。ディロンの作品は緻密に描かれ、大胆な色の渦がアクセントになっている。彼が最もよく使う絵筆は、ペンほどの大きさの小さなものだ。描き込みや陰影に使う。大きな筆は、広がりのある空のために取っておく。まず黒い輪郭線から始める。他の画家からの影響以上に、頻繁に引っ越した家族の中で子ども時代を過ごした経験が、自分に影響を与えているとディロンは言う。それが旅と言語への愛を育んだ(最近、恋人とイタリアを旅行した後、イタリア語を学んでいる)。特にヨーロッパが好きで、その色彩には「圧倒された」という。
約4年前、彼は父親の家族の出身地であるイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドを旅した。「ヨーロッパと、建築における大胆な色彩や様式の使い方から大きな影響を受けています」と、ディロンは画家としてのメモに記している。

「都会と田園の両方からインスピレーションを得て、自分自身のスタイルで表現し、イラストのような趣向で色彩を強めています」。彼は、活発な少年として経験した冒険にも影響を受けている。深さ約2メートルの地下要塞を掘る計画を立て、上に人が立っても耐えられる、鋲の付いた屋根まで作った。寝室で頭上まで伸びていた熱帯植物への親しみは、後に大学で園芸技術者の資格を取得することにもつながった。
母親のパメラ・ディロンとともに、造園資材と石張り材の小売・業務用販売店を経営するディロンは、創作活動において実り多い時期を迎えている。5年間で100枚の絵を完成させると決めている。その背景には、2010年に脳腫瘍で亡くなった、敬愛する父ジム・ディロンの生前の願いがある。「毎日会いに行き、毎週どこかへ連れ出していました」と彼は言う。「父は、絵を描くべきだと言いました」。
「少し描いてはいましたが、小さな趣味を中身のあるものへ変えること。それが私にとって、父の死を乗り越えることでした。そこに、埋めなければならない穴ができたんです」。しかしそれは、自分を奮い立たせ、前を向かせる目標でもある。「私は目標志向なんです。軌道を保つ助けになります。そうでなければ、人生に流されて、やらない理由がいくらでも出てきます」と、寝室のイーゼルに置かれた制作中の絵を見つめながら話す。
作品番号71は、パリの街並みを見下ろす屋上からの眺めだ。「今のところ、これは気に入っています」と彼は言う。「次の段階は、奥行きと影、質感です。寝る前に最後に見るもの、起きて最初にすることがこれです。今は」と彼は続ける。「家族と仕事、人間関係のバランスを取りながら、これにも取り組もうとしています。絵を描くのは、好きだからです」。ディロンの家族は、彼が13歳になるまでに13回引っ越した。小売・流通業に携わっていた父親は、勤務先の異動によって、妻と3人の子どもをウィニペグやエドモントンなどカナダ各地へ連れて行った。「ウィニペグの外れにある穀物エレベーターや野原で遊び、1時間も続く列車が通り過ぎるのを見て育ちました」と、キッチナー生まれのディロンは言う。

何度も住む場所を変えたことで、彼は環境に適応できるようになった。「人に対して大きく心を開き、誰とでも話せる力が身についたのだと思います」と彼は言う。また、物をあまり増やさないため、少ないもので暮らすことも覚える。その結果、「私はきれい好きで、整理整頓されています」。それは彼の作品にも家にも、さらにはアトリエにも表れている性質だ。成長期の彼は向こう見ずで、「とても事故に遭いやすかった」と、笑いながら話す。春、人工的に凍らせた湖の上を歩き、氷が割れる音を聞こうとした。ダートバイクには悪魔のような勢いで乗った。友人たちと作った地下要塞(後に取り壊された)には、5人の子どもが入れた。母親に見つかり、彼女が息をのんで見守る中、建設中の家の屋根の頂上を歩いたこともある。「降りてきたときに、叱られました」と彼は言う。
「できることなら、家の中にはいませんでした……穀物畑を歩きながら、両手を広げて、手に触れる感触を味わったことを鮮明に覚えています。とても触覚的な子どもでした。空を見上げ、何時間も雲を眺めていたのを覚えています」「私たちは彼を『ウェザー・ボーイ』と呼んでいました」と、作家である母親のパメラは言う。彼は「アドベンチャー・ボーイ」とも呼ばれていた。「竜巻が来ても、彼はポーチに出ていて、私たちは中に入らなければならなかったんです」と彼女は話す。

学校では事実を思い出すのが特に得意ではなく、頻繁に転校したことも助けにはならなかった。その一方で、空間認識能力は非常に優れていた。「建物の中を歩きながら、物の配置や人が着ている服を覚えられます。外から建物を見て、部屋の構造を推測することもできます」。11歳頃に絵を描き始め、最初は『宝島』の挿絵を試みた。授業中によく落書きもした。10代の頃、ディロンの両親は彼を美術教室に通わせ、そこで静物画に集中した。彼は絵を描き始め、大人になってから彼の風景画を特徴づける要素を発展させた。画像の輪郭を取って動きを強調する黒い線と、その後に重ねられる色彩だ。
「現実をもとに描くのが好きでした。ただ、現実そのものに見えるようにはしたくなかった」と彼は言う。「もっと抽象的にする傾向があります」。高校の協同教育課程では救急隊員の仕事を試し、コネストガ・カレッジで法律と警備を1年間学んだが、どちらの仕事も自分には向かないと判断した。1994年、ナイアガラ・カレッジに入学し、園芸とランドスケープデザインを学んだ。専門的な学習は、彼にとって「自然から魔法を少し奪った」ものの、教育によって自分の芸術が助けられたと感じた。

「人体を描くことを好む画家にとって解剖学の授業が有益であるのと同じように、園芸を学ぶことで、植物の生物学や成長の傾向、植物が生き延びるだけでなく繁茂するための条件を理解できました」と、彼は自身のウェブサイトに記している。父と母がウォータールーを拠点とするオフィス用品、コンピューター用品、家具の事業を売却し、造園会社を買収して、それがウォータールーのストーン・ランドスケープス社になったとき、彼の知識は役に立った。ディロンは13歳から父親と働いていた。成人後はオフィス用品事業で出世し、営業・マーケティング部長になっていた。
「父と息子としての尊敬があり、私たちは友人でもありました」と彼は言う。ストーン・ランドスケープスの経営を引き継いで間もなく、父親が病気になった。同じ頃、ディロンは離婚も経験していた。元妻との間には2人の子どもがいる。父親の死とヨーロッパ旅行の後、ディロンは本格的に絵を描き始めた。「私はひとりでした。3、4時間、描き続けました」と彼は言う。「1週間で、仕事以外に40時間絵を描きました。夜遅くまで、週末も描きました」「人生は忙しいけれど、そこに入ると自分を忘れられます。時間なんて関係なくなるんです」。
その感覚は、ノルウェーの作曲家トーマス・バーゲルセンの壮大で様式的な音楽や、「トゥー・ステップス・フロム・ヘル」による彼の音楽の演奏を聴きながら描くことで、さらに強まる。「創造的な白昼夢のようなものです」とディロンは言う。「絵が完成するまでに、何度も夢を振り返ります。何を考えていたかを思い出すんです。何度か、絵が生きているように感じることがあります。絵の中にすっかり入り込んでいるんです」。
地下室の部屋の壁に掛かった鮮やかな絵は、熱と影を表す線描と色彩を見せている。見る人が絵に近づくと、驚くほど細かな描写が見える。父親が亡くなった後、ディロンは「すべてから逃げるために」絵を描いていた。「人に気に入られるかどうかなんて、どうでもよかった」。ある画家仲間に販売を始めるよう勧められ、作品を写真に撮って手放してもよいと思うようになった。「そのイメージは、当時自分が何を考えていたかを思い出させてくれます」。彼は裁判所や事業所に絵を飾ってきた。約47点を販売し、プリントの提供も始めている。もう一度展覧会を開けるほどの作品数を完成させたいと考えている。
繁忙期が近づく中、夏には30人を雇用するディロンの事業は、彼の時間と思考の多くを奪っている。しかし、人々が自分の作品とのつながりを語ってくれると、彼は活力を得る。「みんな私に物語を聞かせてくれます」。ゴード・マクスヴェニーは、ディロンが創り出した嵐の真ん中に自分がいるところを想像できる。絵も描くケンブリッジの弁護士は、法律図書館でディロンの作品を見たその場で、絵を買うことに決めた。
「私が持っている作品は嵐の絵で、嵐の真ん中にある小さな山小屋のポーチに座り、母なる自然に驚嘆している自分の姿が目に浮かびました」とマクスヴェニーは言う。「子どもの頃、よくそうしていました。ポーチに座って、稲妻が落ちるのを待ったんです。あの嵐のときに感じた感覚を……彼の絵から受け取りました」。ケンブリッジの弁護士トッド・クリステンセンは、ニュージーランドのオホープ・ビーチで妻や子どもたちと暮らしていた年月を思い出させる浜辺の風景に心を奪われた。「地平線に噴煙を上げる海底火山が見える、全長12キロメートルの白い砂浜の真ん中で暮らしていました」と彼は言う。

ケンブリッジの弁護士は、以前の海辺の家から見た景色を思わせる目印を加えた、同様の風景をディロンに依頼した。完成した絵を妻に贈ると、妻は日光が当たる壁に飾った。彼は最初に気に入った絵も購入し、資金集めのために寄付した。「彼のスタイルは抽象的リアリズムと表現できます」とクリステンセンは言う。近くで見ると抽象画のようだが、「少し離れて見ると、とても写実的でありながら、色彩の層が重なっているように見えます」。かつての裁判所にあった図書館の地下室には、自然光がなかった。しかしディロンの絵が壁に掛かると、部屋が一変したとマルバーンは言う。「まるで、そこに窓ができたようでした」。
原記事へのリンク:https://www.pressreader.com/canada/grand-magazine/20150510/283261686404097



